日時: 2019年3月18日(月)15:00〜16:30
場所: 総合2号館3階 ケーススタディ演習室
http://yamauchi.net/contact/casestudy/
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講演者: 須永剛司教授(東京芸術大美術学部デザイン科・京都大学デザイン学ユニット特任教授)
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講演概要: br>
「つくることのプロセスはつくらないと存在しない」状況うちに身を投げ出し、わけもわからず何かをつくり出してしまう。そして、つくった後に、できたものごとを見て、はじめて、どのような意図とプロセスでそれをつくったかを自分なりわかって、わかったことをもうひとつ表現してみる。デザインがそれ以外の「つくること」から区別されるのは、この点、つまり自らの創作物の「本質」をあとから合理的に説明できるかにかかっている。
デザインの条件をこのように捉えてみると、デザインは専門家の職能から、生活者の能力へと拡張される。つまりその能力は、「つくること、あるいはやること」と「なぜそれをやっているかがわかること」をあわせもつことになる。デザインの専門家とは、生活者が持っているその能力を引き出し、生活者とともに考える技術者なのである。
その意味でデザイナーとはタフな素人である。医療者と患者との関係は非対称である。そこにはミクロな権力が働いている。両者はわれ知らず、そうした関係性を「つくって」いる。そこにつくられてしまった権力と権利を市民の側に再配分することの重要を私たちの社会は気づきはじめている。
デザイナーの役割は、「そこでつくられていること」を可視化し、なぜそのような関係がつくられているのかをわかりやすく表現し、その両者の関係をより善いものに変えるにはどうしたらよいかを考えるよう、人々にうながすことにある。それはアクションを提起することであり、その意味でデザイナーとはアクティヴィストなのだ。
事前に計画し、それを実現するというのが近代デザインの基本だった。それはまずもって本質を規定し、そののちにその存在を描き、それを生産する。そこでは本質に外れた要素は否定される。このかぎり計画は人間の生を箍に嵌める。
いまここにある人間の生、その存在をまずもって肯定する。生の〈いま〉に歓び、人々の自己肯定感をさらに強化することが、デザインが生みだす価値なのだ。デザインより前に社会があり、自分も生きているその社会のなかで、私たちとしてデザインをはじめるのだ。「社会とはまずもってそこにあり、それを善くすることがデザインである」(九大講演への古賀徹先生コメントに重ねて)
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参加費: 無料 br>
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申込: 不要 br>
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主催: デザイン学大学院連携プログラム br>
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問い合わせ: 京都大学経営管理大学院 山内裕、佐藤那央
yamauchi[at]gsm.kyoto-u.ac.jp
sato.nao.57a[at]st.kyoto-u.ac.jp