日時:2015年3月26日(木)14:30~17:00
場所:京都大学デザインイノベーション拠点
京都リサーチパーク9号館5階
http://www.design.kyoto-u.ac.jp/access/#KRP_JA
プログラム:
14:30-16:00 討論 「本当のおもてなしとは?」
柳 忠志氏 山の手倶楽部 (ソムリエ、おもてなし作家)
小川 勝章氏 植治 (庭師)
山内 裕 経営管理大学院 (サービス研究者)
16:15-17:00 新しいサービスの実現するための起業 「うまいで人を元気にする」
橋本 憲一氏 京料理梁山泊 (ミシュラン2つ星 料理人)
渕野 信也氏 (サービスデザイン起業家)
ファシリテーション: 谷 俵太氏 (aka 越前屋俵太)
主催: 京都大学デザイン学大学院連携プログラム
実行委員長:山内 裕(経営管理大学院 講師)
報告書(PDF)
参加者: 51名(+ 講演者、主催者など 8名)
このワークショップの目的は、京都大学経営管理大学院の山内らにより蓄積してきたサービスとサービスデザインに関する研究を発表し、サービスを実践している方々と討議をすることで、実践の観点からの研究成果の吟味、実践に向けた可能性、今後の研究の可能性を探ることであった。また、後半には、この研究の延長として実践しようとしている、サービスデザインの取り組みを紹介し、議論することも目的の一つであった。今回は谷俵太氏(右図)にワークショップのデザインとファシリテーションをお願いした。
「サービスとは闘いである。」これは山内らの基本テーゼである。その詳細は、3月23日刊行の書籍『「闘争」としてのサービス—顧客インタラクションの研究』(中央経済社)にまとめられている。このワークショップではその基本的な考え方が示された。
サービスとは何でしょうか? 心からの奉仕であるとか、居心地のいい空間を作ることであるとか、顧客のニーズを満たすことであるとか、顧客に便益をもたらすと言われます。サービスにおいては顧客を満足させることが究極の目標であると考えられることが多いです。しかし本当にそうでしょうか?
鮨屋で親父がニコリともしない。わざわざメニュー表を置かず、値段もわからず、最後に合計しか知らされない。京都の料理屋でとても入りづらい雰囲気を醸し出したり、読めない掛軸がかけられている。何も看板をかけないあやしそうなバーがある。カジュアルなイタリアンやカフェでも、メニューに客にとって理解不可能な名前がつけられている。これらは既存のサービスの理論では説明できないように思います。
サービスとは力のせめぎあいです。お茶席で亭主がそっと見えないように気遣った。客がそれを見て感心した。これは見えないように気づかったことで、客からの見返りをもとめない配慮をしているというだけではありません。客がその亭主の力量を「感心した」、つまり亭主の力を認めたこと、そして客がそれを認めるだけの力を持っていることが問題となっているのです。
もし鮨屋で職人が笑顔をふりまいて客につくそうとすると、客はその鮨を同じぐらい高く評価するでしょうか? 職人は客のためにではなく、自分のために仕事をしているから、客はその仕事を高く評価するのです。提供者が客を満足させようとすると、客は満足しなくなります。客にわかりやすく、居心地のよい空間を作るのではなく、逆にわかりにくく、緊張感のある空間を作らなければなりません。サービスは高級になるほど、笑顔、情報量、迅速さ、親しみやすさなどの所謂「サービス」は減少します。これらの「サービス」はサービスの本来の価値を低下させます。
どのようなサービスでも、つまり高級なものだけに限らず、まずそのサービスが客にとって特別なもの、非日常であるというように文化を構築します。その時点で客を否定しているのです。つまり客が日常的に知っているものよりも優れたものであるということ。そして客はそのように構築された文化の中で背伸びをしてふさわしい人間を演じることを求められます。この緊張感がサービスの基本であり、笑顔で調和の取れたサービスというのは、その裏返しとして作り上げられたものです。
サービスが闘いであると主張するとき、客をないがしろにするということではありません。客を一人の人間として認めるならば、その人と闘う覚悟が必要となります。世の中では一方的なサービスが広く普及していますが(金を払って座っていれば満足させてくれるという意味で風俗化と呼んでいます)、そこでは客を一人の人としては捉えていない、つまり人をモノとして扱っているのです。闘いのサービスは、人を人として考える必然的な帰結です。
サービスの価値は、このような闘いから生まれます。要求を満たすと要求が消滅し、価値も消滅してしまいます。客を喜ばそうというだけのサービスは自らの価値を毀損することになります。全く別の価値があるということを理解することが重要だと考えています。本当の料理人はただ食べて美味しい料理を作りません。美味しいかどうかわからないような料理。それにより料理人はリスクを取り勝負しているのであり、客も試されているのです。
この説明の後、二人の実践家と討論を行った。一人は、ソムリエの柳忠志氏である。都ホテルでダイアナ妃などのVIPのもてなしを一手に任されてきた方で、その後は独立し自らサービスを実践しながら、人材育成に取り組まれている。もう一人は、庭師の小川勝章氏である。無鄰庵、平安神宮などの庭をてがけてきた250年続く「植治」の代表であり次期12代として、作庭を実践されている。
柳氏は、フランスでソムリエとして働いたときの経験から、闘いとしてのサービスの側面を紹介いただいた。フランスの片田舎にある2つ星レストランで働かれていたときのことである。雨が降る日曜日の昼、アメリカ人家族3人が店にやってきた。予約を持っていないという(この店は完全予約制)。総支配人が応対し、どうしても食事をしたいのかを確認する。外は雨が降っているし、次のレストランまで距離のある田舎である。食事をしたいという客に、総支配人は席を用意するので待つように言う。そこから小一時間待たせたという。店には空席がいくつかあった。
また、サービスをするプロとして、柳氏は客のことを理解しようとする。もちろん、どういう客なのかを明示的に聞くことはない。例えば、その服装やふるまいなどからも推測するし、難しい質問を投げかけ、客がどう反応するのかを見る。これは鮨屋でのやりとりに共通するものである。そして、サービスには緊張感が少しあった方が、料理が美味しくなるという。もちろん、大部分緊張していたのでは料理が喉を通らない。10%ぐらいの緊張があって、90%ぐらいリラックスしている状態がいい。
このようなサービスを通して、客が育っていく。最初はワインについてよく知らず教えてもらうだけだった客が、そのうち自分でもワインを買うようになり、ワインセラーを買うようになる。このように客が育つことによって、サーブする方も切磋琢磨し、よりレベルを上げようとする。これがサービスの発展の原動力となっている。また、一方ではサービス不要論につながることも否定できない。
庭師の小川氏は、庭も客にとってただ美しいというものではなく、緊張感のあるものであるという。今まで何気なく通っていた石も、あるときふとその石が一つ違う方向に向いていることに気付く。そしてその石の上に立ち、その石の向いている方向を見ると、そこから見られるように作られた庭が姿を現わす。一見しただけではよくわからないデザインであり、それに気付くまでに時間もかかるし、見る人の経験や素養が問われている。
このようなデザインを、庭師としてどのように価格付けするのかということを議論した。つまり、客が気付くまでに時に数十年かかるかもしれない、あるいは気付かないかもしれないようなデザインに対して、その価値は一義的に判断できないところであり、高い価格をつけるのは難しい。植治としては、祖先から受け継いで来た精神を短期間に消費してはならない。故に現代において、大きな利益を生むビジネスをすることが、数十年或いは数百年スパンで必ずしも正解ではないと判断している。そのような価格に反映されない仕事が、植治が250年以上も続いてきた理由なのだろう。
後半では、サービスデザインで起業するチームから、その活動の内容についてプレゼンテーションがあった。ミシュラン2つ星である京料理梁山泊主人 橋本憲一氏は、京料理の歴史を紐解き、京料理には多くの嚥下食が混っているという。冬の京料理の代表である蕪蒸しは、蕪をすって作ったものに葛餡をかけたものであり、嚥下障害者でも食べやすい。また蓋のある器に入れて出し、その中の蕪の中にもまたタネが隠れているというしかけも、食欲を増進するための工夫である。その他、胡麻豆腐、生麩、玉子豆腐、白和えなど嚥下食になるものが多い。
橋本氏は、自らを嚥下障害状態にするために、歯科医に麻酔を打ってもらい、顔をガムテープで固定してみて、試食し、味付けをするという実験を行い、嚥下食のデザインに取り組んでいる。その中で香りや新鮮さなどの、味以外の手掛かりをうまく利用し、デザインしている。
橋本氏と共に起業するのが、渕野信也氏である。2年前に京都大学経営管理大学院を卒業した後、Eコマースの会社に就職したが、今回の起業のために退職した。渕野氏から、起業の理念、体制、計画などが説明された。嚥下障害者や、その他飲食が困難な高齢者は、一方的に受け取るサービスに依存することになる。サービスする方は、高齢者を心からサポートしても、そこでは主体性は必要なく、一人の人間としてサービスに参加する可能性が締め出される。結果的に、引きこもり、さらに障害が悪化していく。「うまいは心の栄養である」というコンセプトで、この状態を打破したい。嚥下食もこれを作れば安全であるという基準ではなく、自分はここまで食べれたから次はその上を目指すというような基準に変えていきたい。そのとき、高齢者は自ら主体性を持ってサービスに参加する。つまり、サービスは闘いである。
このワークショップでは、大学関係者だけではなく、地元でサービスを実践されている様々な方々に参加いただき、実践の観点から様々な議論を交すことができた。今後のサービスデザインに関する研究のヒントが得られた有意義なワークショップであった。